ブログ内容がまるまるパクられインターネットニュースに出ていました
前回記事がそのままパクられていました
私(当事者)の書いていた記事が、少し後で●●大学教授という肩書きによって、ほぼ似た内容でリライトされたようになった記事がインターネットニュースに出ていました。
私はアドセンスを除き、お金をもらっていません。というか、私の財布にはお金なんてありません。
こういう方々は肩書きによって、ちょっと話をすればお金がもらえるのです。
私もお金があったなら大学残って勉学や研究したかったですよ。(本当は残りたかったのに、お金がないしバイトすら稼げない、家にはお金ないから残れませんでした。勉学もお金がないとできません)
当事者のことを研究しているから、ブログからの抜粋でもいいんでしょうか?
名前と記事名を出してもいいですが、お前には研究者としてのプライドがないのか? と言いたい。
メディアも、私の記事のリライトで金貰えるような仕事なら、私の一次発言を載せた方が早いでしょうに。
世界一発達障害が多いというブログ記事も、後追いのメディアが(こっちは掘り下げた内容でしたが)検索上位に上がって私の微々たるアドセンス収入すら切ろうとしているのかって感じです。
なぜ日本は「発達障害大国」なのか 国別統計で常にトップレベルの理由 (1/6ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
お金にならないことでも公共の福祉のために頑張ろうと思っていたのですが、こういうことが立て続けに起きているのでブログを書きたくなくなってきました。だって私の収入0なんですから
(障害者雇用にて体調悪化→就労できず今無職)
また、発達障害なんてない、と書いたら、意図的にアクセス数を下げられているようなアクセス数の下がり方が最近ありました。
発達障害によるビジネスを期待しているのかはわかりませんが、そんなものは社会の側が全て型にはめた人間しか求めていないから発達障害が生まれるんだと言いたいです。
発達障害は本当に「障害」?
精神科医シロクマさんのブログでも、何かにつまづかなければ障害になっていない、気づいていない人もいる、とあります。
自立支援をうたった発達障害ビジネス、や「障害」と言い張って(グレーゾーンでも言い張る)変にメディア露出している人、そこに社会的意味や大義はまったく感じません。
だって、発達は発達「障害」じゃなくて、何かに特化し、何かが劣っている、ただの人間ですから。
尖った能力はどこかで役に立つかもしれないけど、役に立たないかもしれない。
役に立たないからといって障害扱いするのはいかがなものかと。
発達に多い感覚過敏な人というのは、自然界で生きるならとても役に立ちます。
でも、変に光るビニール床や明るい照明の中で働かせるために、「その敏感さを鈍麻させる薬を処方します。そしたらそこで働けるでしょう」という今の精神医療のやり方、おかしくないでしょうか。
(少なくとも最初に行った精神科医は発達障害を疑うことなくこう言った。)
もしかしたら、この「障害」は環境が作り出しているのかもしれないし、産業界が勝手に生み出した産物なのかもしれない。
時間を追い立てる日本の社会、精神的貧困が発達「障害」を作り出しているのではないかとすら思ってしまう。
あとよく聞かれるのは、発達障害は人づきあいが苦手ということ。
気が合う、合わないはどんな人間でも、動物間でもあります。
定型と呼ばれる人と思考チャンネルが違うだけの人だと思います。
お金があれば発達「障害」じゃない
お金さえあれば自分で自分を律することも、人より変わった部分を「障害」と言われずに探す道や手立てを探すことも、できるのです。
日本が貧困になったのと、みんな同じことをやれと強制する風潮、社会的風土がもともと出る杭を打つ人ばかりだったから発達「障害」なんてくくりが他の国より厳しいだけなんじゃないのかなって思います。お金があれば、冒頭のパクリ事件のように「●●教授のお言葉として宣撫する」ことをせずに、自分でアカデミックなキャリアを取ったり、もう少しブログにお金や時間をかけて発信することだって出来るでしょう。
お金があればそれだけ職業選択の幅が広がるから、発達障害や自分に合う業界を探すこともできるのです。年齢でもなんでも、この国は余裕がなさすぎる。
つい数年前まではギャップイヤーの概念さえなかったし、貧困のために無理に働かなければいけないという余裕のなさによって、労働が無理な人でも無理に働かされて精神を病んでしまったり、自殺に追い込まれたりする。(それも、生きるラインに届かないような最低賃金で)
人間が生きる最低賃金や価格計算ができない国は生きづらいです。
年々日本人自体の給与が下がっている(非正規化など)状態で、労働に求められる基準は上がる。
発達障害は増えて当然の原理です。
そんなことを、人間の「障害」として扱うことに疑問を覚えます。
障害者はオープンに、もっとフラットに扱おうなんて平等主義を謳っていますが、障害は障害と呼ばれた時点で「障害」になるのです。
「障害」という言葉に対して人間的平等のかけらなどないし、ただ会社や学校の決めた時間に起きられないという人が障害扱いされるの、変だなと思います。
発達「障害」でビジネスライティングをしている人々へ
最後に吐き捨てるように言いますが、これが●●大学の教授の言葉なら、非常に重いものに感じるはずなのに、私の声は相変わらず世界の彼方の一隅にあるブログに過ぎません。
発達障害ビジネスでライティングしている人々、恥を知れ。
それが競争だ、正義だというのなら、私は口を閉ざしましょう。
私のブログは、発達「障害」なのかも? と考える当事者が、社会との距離を考えた一次発信記事です。「こうすれば働けるだろう」だの「こうすれば社会になじめる」などという、発達障害じゃない人が、発達障害の人を無理やり社会に定着させてやる、ようなブログは書きません。
「障害者様だ配慮しろ!」 という意見も書きたくありません。
ただただ、こういう特徴や特性を持った人が、どうやったら今の社会で死なずに生きていけるのかなと考えて書いています。(しかし社会との乖離があり過ぎる点;特に経済の問題については福祉に頼らざるを得ないため、ベーシックインカムなどを提示しています)
しかし、どんなに人々の共感を得られてもブログでお金は入らないし、パクられるのは嫌だし、どんな研究者が知らないことも自分では気づいていてもそれを発信するだけですぐに後追いの記事が出てムカつくし、今メディアでアホみたいにやっている啓発活動; 発達障害を「障害」として喧伝するようなことの片棒を担ぎたくはないのです。
社会的啓発はアホみたいに今メディアでやってて、「発達障害バブル」とすら揶揄されている。
メディアでやっていること、非常に頭が悪い思考の見本みたいで気持ち悪いです。
障害は「社会」で求められることの裏返し
障害という言葉は裏表があって、「社会が定義するから障害」になるんだということ。
たとえば指が6本ある人がスタンダードな社会ならば、指が5本しかない人間が障害になってしまう。
発達「障害」の多い裏側は、それだけ社会の求めることが重く、しかも厳しくなっているということ。
遅刻しない、周囲と協調し反抗しない、話をよく聞く、マニュアルをきちんとこなせる…
日本のバブル期なんて誰も発達障害なんていなかったし、「あの人仕事できないねー。まいっか、アフター5にカラオケ行こう」で終わっていたのではないでしょうか。
お金があったら精神的に余裕があるからです。
カネがないことが発達障害の一番の問題であって、カネがあったら発達障害でも自分の好きなことを極める時間や資金がある。現代はそれがないし、周りも余裕がない。
感覚の過敏さは芸術でも、野菜づくりでも人付き合い以外なら生かせる。
しかし生かせる手段がない。
結論:メディアの発達障害宣伝は意味がない
障害ではなく他に転用できることを「障害」と喧伝することに、なんの大義がありますか?
他の人より精神的成長が遅いことを「障害」と言うのは、年齢にあまりにも厳しい日本の就職事情や受験事情があるからではないですか?
他の国より長時間通勤&就労させて、できなければ「障害」としてしまう言葉の危うさ、おかしくないですか?
それで理解が進んで社会が変わりますか? 変わってないし、障害者だからといって、実務に携わらない変な特例子会社でバックオフィス業務を低賃金でやらせたり、「配慮しましょう」といって、障害者呼ばわりして無理に企業の隅で働かせたりする。
求められている能力と合致しない人間なんかオフィスに入れても意味がないし、業務の非効率化にしかなりません。アスペルガー傾向で、コミュニケーション力がなくても●●をやらせたら最高、という人を、障害枠ではなく雇うのが本来のダイバーシティ活用です。
現代のビジネスや環境の変化が生み出した人間の苦悩を、「障害」としてすべて一括りに宣伝するな。