なぜ日本がこれだけ生きづらいのか? 本田圭佑の発言炎上と日本特有の生きづらさ
「自己責任」という言葉だけで片がつくなら、私はもうとっくにこの世から消えているべき人間なのかもしれないたこです。
こんなツイートが世界に届けられて、某サッカー選手が見事炎上してしまいました。
わたしはサッカーにそこまで興味があるわけではないのですが、本田圭佑は一元的にしか物の見方ができないかわいそうな人だと知り、大変残念です。
しかし、自己責任だけで人の生死が決まるのだったら、人を生かさない社会って何のためにあるんでしょうか?
少なくとも発達障害がある私の身分からすれば、日本の社会制度は不備だらけで大変生きづらい国です。社会の仕組みや政治の不備じゃなくて何だというのでしょうか。
私の場合、自分の生きにくさが社会システムの不備なので理由が明確なのですが、現在の政治システムは先日の記事のように、非常に一般人には排他的でかつ弱者が土俵に登れないように出来ています。日本の政治は全然自由に参加なんてできないんです。
それでも、私がそれによって生活で被っている全ての苦しさを1つ1つブログに載せてくことによってほかの人が知ってくれたらいいと思うので、自分にできることを積み重ねていこうと思います。
夢を追ってたまたま叶ったからといって、驕ってしまう人は嫌われます。
ある問題に対して、人ができそうな行動を提案するのが建設的な意見です。
友人がうつ気味の時に、「何かできることしてみたの?」と私に聞いたのは建設的な意見だし、至極現実的です。ふつうの人はいきなり10はできません。
夢を見させてナンボのスポーツ選手がビッグマウスを叩いてしまうのはまあ、そういう人種だし仕方ないとは思いますが、誰しもが10できる社会ならばこんなに格差はないし、仕事ができないからつけられる、発達障害という名前自体がないのではないでしょうか。
発達障害だけじゃなく、 若者だけじゃなく、誰もが生きづらいのが今の日本です。
今日は、発達障害があってもなくても、日本がなぜここまで生きづらくなったのかという根本的な理由について考察してみたいと思います。
なぜ急速に日本が生きづらくなったのか? 根本的な思想の差
現在の会社のやり方は、戦勝国(西洋)の考え方が基本となっています。
私は、あまりにも白人の考え方と日本人の考え方が合わないのではないかと思っています。
①宗教
ヨーロッパでは、荒ぶる自然を支配して、自分たちでコントロールしていくという考え方が基本です。
考え方やルールの基本となっている教会には天高い尖塔があり、これが権力の象徴だという見方もあります。唯一神。
対して日本の考え方の基本は、自然と共存していくやり方です。山伏は山野を切り開いたり、山を修行場所とする寺院や神社もあります。 山岳信仰では、山ー神様という見方もあります。山のような偉大な存在をコントロールするのではなく、そこで修行をする、自然と一体化するのが日本の宗教です。あらゆるものに感謝し、八百万の神様を崇拝します。
②家畜
肉食白人の家畜コントロール方法は、家畜を屠殺し、食べます。
草食日本人はお米と野菜が中心なので、(そこまで頻繁に)動物をコントロールして食べたりしません。
③身分下の人に対する接し方
自分より下の人々は、コントロールして搾取ー植民地の発想です。
インドではとくに大英帝国が自国の製品を買わせるために、木綿職人の腕を切り落としたり、オージーでは入植民が人間ハントをしたり、スペインの入植したインカ帝国なんかはもうそれはそれは筆舌に尽くしがたい残虐行為をしました。でもそれはある意味でみると、「どうにもならないものをコントロールする」という風にも見えます。
一方日本人のえた非人に対する考え方ー近寄らない、見て見ぬ振り、差別、陰口。距離を置く。無視して存在がないようにする。学校のいじめに近いようなものでしょうか。
④いじめ
西洋のいじめは個が対象でオープン、見えやすい暴力。=
日本のいじめは陰湿で集団リンチ。
⑤不文律
白人ールールが明文化、個人社会
日本ー空気読め、集団社会
などなど…
私が思うに、ルール策定側の白人と遺伝子レベルでこれだけ違うんだから、西洋化はしたところで、日本人にとってすごい生きにくい管理社会なのだと思います。
この面がグローバル化社会に対応するため、さらにもっとキツイ管理社会になりつつあります。数字や時間などをものすごくシビアに見るからです。
日本は輸入システムによって(も)苦しめられている
文明によって肉体労働が減って生活が楽になっても、苦労が絶えない。
生きづらさの代表人・夏目漱石もこの西洋化パラドクスについては
これほど労力を節減できる時代に生れてもその忝かたじけなさが頭に応こたえなかったり、これほど娯楽の種類や範囲が拡大されても全くそのありがたみが分らなかったりする以上は苦痛の上に非常という字を附加しても好いかも知れません。これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。
と言及しています。
tetsujin96 さん(ブロガー)のお言葉を引用すると、
日本の開化は御存知の通り、西洋のモノをがむしゃらに輸入しては無理矢理組み込んでいった外注品でした。
西洋は血生臭い革命を通して、自らの歴史を元に長い年月をかけて開化を行いました。日本はその根本にあるものを経験することなく、上っ面だけを取り入れたのです。
そのため日本は何をするにも西洋の基準に合わせないといけなくなります。
ここで日本は「自己本位」の概念を喪失したのです。
ということ。
上っ面だけの「西洋化」に、みんな昔から苦しんできたのでは? とすら思える内容です。
定型でかつ管理システムに乗っ取られた日本人が会社イチバン人間に陥ってしまう理由が、なんとな〜く見えるような。
勉強になった記事
nounai-backpacker.hatenablog.jp
しかし、西洋化しなければ合理的なこと、科学的なものの見方は育たなかったでしょうし、この点は適応していくか、改良すべきなのかもしれません。
命の重さに自己責任論なんてありません
hirokimochizuki.hatenablog.com
望月さんは本田圭佑のようなたまたまうまくいったおじさんを「成功おじさん」→「自己責任おじさん」への転化だとおっしゃっておられるが、まさにその通り。
現状成功者と呼ばれている人たちでも、持っている金の量を、成功の質と勘違いしている人が多すぎると思います。
私の周りでも、数は質なのか? と考える事件が先日ありました。
ただ言及しただけなのに、某自称うつ病のブロガーさんが「私はフォロワー数が多いから羨まがられてるんだ!」とか意味不明なことを抜かして、裏で方々に陰湿な形で私の悪口をばらまくという事件だったのですが、数が正義なら正論はいらねえんだよ!という話です。
中身がアレでも、話や見せ方がそれっぽく(いい人に)見える人がもてはやされる現代の風潮とよく似ています。
発達障害と生きづらさ
ここまできた「西洋化」日本ですが、結局、生きづらさは昔の人も感じていた。
けれども、そこへ追い打ちをかける不景気とデフレと某政治家の発言がもたらした「自己責任」論がとどめを刺した感じです。
トップに立つ人が「自己責任」と切り捨てることを明言したことによって、この国の生きづらさがますます加速したのではないでしょうか。
最初のほうで述べたように、日本では弱者や弱いもの、自分より下のものをコントロールするのではなく、無視する、あるいは見て見ぬ振りをします。だから、「自己責任」という言葉で全てを馬鹿の一つ覚えのように片付けようとする。
でも、西洋ではそれとともにチャリティーや運動も盛んです。(税金対策の面もあるようですが)
政治の犠牲者にならなかった運のいい人の発言例
本田圭佑の発言に戻ります。
日本では成功者がこのような振る舞いをしてしまうあたりに、格差社会の生きづらさを助長している一端が見えています。
少なくとも、発達障害と診断された者にとって、生きづらいのはこうした管理社会や政治そのものの問題です。
そこで定型レールから弾かれたら人生がどれだけ生きづらいかってことは、結局は、そういう状況にある人しかわかりません。
だから、「お前もわかれよ」と本田圭佑のようなうざい成功おじさんに説教しても仕方ないのですが、そこにいる他人を見て見ぬ振りすることが、西洋化以前から今日まで続く、根本的な日本の生きづらさの原因なのではないかと思います。
おそらく、本田圭佑はこのツイートだけで頑張って生きている若者のほとんどを敵に回したと思われますが、でもこれも意見の一つといえば一つです。
居酒屋のグダ巻いてるおっさんの話なら聞き流せばいいものですが、その意見はすごく物議を醸し出しました。マス=数=発言力の力ですから、炎上する力も強いのです。
「政治が悪いというのは君の努力が足りないからだ」という人は、政治にまったく無関係でやってこれた運のいい人、もしくは社会的強者だから、その問題を見なくてよかった人が言えるセリフです。社会の上に立つ人がそういうセリフを言ったら嫌われるのは仕方ないのかもしれません。